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2007年6月16日に放映された「高村光雲、老猿」(美の巨人たち/TV東京)について。木彫である。 光雲は嘉永5年(1852)に江戸下谷の町人・兼吉の子として生まれた。幼名は光蔵。12歳で仏師の高村東雲に弟子入りすると、後に養子となり高村姓を名乗った。忽ちにして写実的な一木造りの難業を覚えてしまったが、廃物運動と神仏分離令、洋風芸術の普及によって仕事が激減する。多くの仏師が転職を余儀なくされる中、器用な光雲は西洋画や彫像写真のスクラップを元にして彫像を造ることにより、辛うじて生計を得た。 光雲の長男であり、彫刻も手がけたが、後に詩人として名を成す光太郎は、「父の作品に大した物はなかった」と素っ気なく語っている。 一木造りに拘る頑固一徹な光雲も、人物木彫の持つ古臭さや抹香臭さを認識せざるを得なくなり、動物をモチーフとした彫刻を手がけ始めた。 1877年には内国勧業博覧会で最高賞を受賞し、1886年には東京彫工会を設立。1889年からは東京美術学校の彫刻科で指導を開始した。 着実にキャリアを積んでいく光雲に人生最大の転機が訪れる。1893年にシカゴで行われる万国博覧会に出品する木彫の制作を政府に依頼されたのだ。光雲はモチーフを「若猿」に決めると、栃木の山奥まで足を延ばし、彫刻用のトチノキを探し出してきた。銀地のような白肌を持つトチノキから若々しさを引き出そうとしたのだ。 ところが、2つの困難が彼を襲う。まず、四男五女の我が子達のうち、最も可愛いがっており絵心もあった長女の咲子(さくこ)が病死してしまったのだ。それは、彫材となるトチノキが届いてすぐの出来事である。光雲は悲しみを堪えるために、住み慣れた谷中から駒込へと引っ越し、そこで彫刻の制作を開始した。ところがすぐ様、もう1つの困難に遭遇する。苦労して選んだトチノキの地肌が、予想よりも遥かに赤黒かったのだ。光雲は方針を変更し、老いた猿をモチーフとして木彫の制作を続行した。こうして完成したのが「老猿」である。岩に座り、斜め上を凝視する老いた猿。その左手には鳥の羽が握り締められている。それは鷲との格闘の際に毟り取った羽毛であった。 「老猿」はシカゴ万博で展示されると、一大センセーションを巻き起こした。理由は2つある。1つは、純粋にその東洋的で強烈な美が注目されたこと。もう1つは、「老猿」が展示されている日本パビリオンのすぐ前にロシアのパビリオンがあったためだ。当時の日本は支那進出を巡ってロシアとにらみ合いを続けていた。そのロシアの国章が双頭の鷲≠ナあり、老猿の握り締めている鷲の羽根は、日本のロシアに対する威喝行為であると考えられたのである。 シカゴ万博の後、光雲は新作の要請を受ける。西洋では多くの庁舎や公園前に石造やブロンズ像が飾られていることを知った明治政府が、いわゆる欧化政策≠フ1つとして、彫像の制作を依頼してきたのだ。光雲はこれを承諾し、かの有名な「西郷隆盛像」を彫り上げた。これを元にして上野の西郷像は造られたである。この他に光雲は、皇居前の「楠木正茂像(楠公像)」の元となる木彫の作成も行っている。また、1919年のパリ万博には「山霊訶護」という彫像を出品した。 仕事には頑固である一方、派手好きで祭り好きでもあった光雲は、近所の寺社で節分の豆まきを頼まれると、喜び勇んで飛んでいったという。優秀な徒弟も多く育てており、その中には山崎朝雲や平櫛田中もいる。 光雲は1926年に東京美術学校を退職し名誉教授となると、8年後の1934年10月10日に死去した。享年82歳。 高村光雲の傑作「老猿」は、現在、西郷隆盛像に程近い上野の国立美術館に所蔵されている。なお、光雲を酷評した長男・光太郎は後に、「父は仏師として日本の伝統文化を護った」と述懐している。 |
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