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2007年1月20日に放映された「平櫛田中、鏡獅子」(美の巨人たち/TV東京)について。今回は木造彫刻。 平櫛田中は、明治五年(1872年)に岡山県井原市に生まれた。遅咲きの天才であり、まず大阪の人形職人の下を訪れ木匠を習得したのが、26歳の時である。人形職人として修行を開始したことが、田中のその後80年の彫刻師人生に大きく影響を与えた。田中は自らを『木彫り職人』と称し、東洋美術の精神性と西洋美術の写実性の融合というテーマに生涯取り組み続ける。 1908年に第1回日本彫刻展が開かれると、田中は「活人箭」という木彫作を発表する。老弓師が弓矢を射る場面を描いたものだが、この老人は肝心の弓も矢も握っていない。実は展覧会発表時には取り付けられていたのだが、この展覧会を訪れた岡倉天心の忠言により、後に外したのである。天心は彫像を見て語った。「こんな弓じゃ、死んだ豚も殺せない」と。天心は田中に、彫刻自体から湧き出す活力によって見る者を射なければ駄目だと諭し、更に「売れない物を作れ」とまで解いた。彫刻とは元々それほど売れる物ではない。つまり、己を餓死するまで追い詰めねば駄目だと言ったのだ。田中は苦悩する。 田中は35歳の頃に、妻・花代を迎えたが、あまりの貧乏暮らしに妻は「あなたは坊主になればよかったのに」と嘆息した。 長屋の家賃は1年半以上溜まり、銭湯にも滅多に行けない。そんな暮らしが50歳を過ぎるまで続く。三人の子供をもうけたが、長男は17歳、長女は18歳の頃に、結核により早世する。田中は、「貧乏は辛くないが、子供に死なれるほど辛いことはない。涙が渇くまで3年かかる」と嘆いた。 田中の名が売れ出し、生活が安定するのは、還暦を迎えた頃からである。その頃から、木彫に彩色を施すという異端に奔るようになる。それは、芸術ベクトルの異なる「人形」と「彫刻」の峻別を解いてしまう禁忌の行為であった。 そして田中は、歌舞伎役者・六代目尾上菊五郎の彫像を作るという大仕事を請け負った。1939年のことである。しかし、歌舞伎役者の衣装風貌を木彫として仕上げるのは、想像を絶する難題であり、大変な歳月を費やしてしまう。戦争によって作業も滞り、終戦後も一向に仕上がらない。完成作を見ぬまま、菊五郎は他界した。妻も既に死んでいる。それでも、田中は作業をやめなかった。途中、幾つ物試作を売って生活費と仕事費を稼ぎ、執念を注いで遂に彫像を完成させる。1958年のことであった。つまり、たった一作のために20年もかけたのだ。それが今日の作品「鏡獅子」である。 その後、「田中は、これでもういつ死んでもいいな」と皮肉を言われもしたが、彼は更に21年間も行き続けた。100歳を過ぎた頃、材木商に「あと30年分の楠をくれ」と依頼している。残念ながら、さすがに30年分は使い切れず、1979年に108歳にして大往生を遂げた。残りの巨大な楠材の塊は、小平市にある田中美術館の庭に立てられている。 現在、田中の彫像の大半は、依頼主の自宅か、小平と郷里の田中美術館に収められている。そして「鏡獅子」は、国立劇場のロビーに陳列されている。実に高さ2メートルにも及ぶ彫像であり、見る者全ての精神を射抜く大作である。 |
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